禅入門


芳賀幸四郎 たちばな出版

禅と言えばとんち問答を連想してしまう。常識では答えられない問に、気の利いた答えを返すイメージ。そんなあいまいなイメージを変えてくれる本。

禅は、徹底して行動の宗教だと著者は言う。いろいろ考える前に、まず座ることが重要だと説く。最初に、数息観の仕方が丁寧に説明される。自分の呼吸を数えることが重要らしい。確かに、単純なだけにいろいろなことを考えてしまう。これが、雑念を振り払うということか。

実際の修行では、与えられた公案について取り組み、見つけた解決を師家に鑑別してもらう。ここが重要なのだろう。師家には、教わりに行くのではなく、自分の考えていることが真正の悟りなのかを鑑別してもらう。だから、入門に際し、師家を選ぶことが重要とも言っている。

本の中で、漱石の「門」の主人公宗助が、失敗の例として出てくる。頭で考えてしまって真正の見解が出てくるはずがないと切り捨てられてしまっている。確かに考えてしまうだろうなと思う。禅の修行は、誰にでもできるわけではないのではないかとも思える。漱石が禅の悟りを開いたら、小説なんか書いていなかったような気もするし。

公案は、自己自身の切実な問題として、全力を傾注してその解決に取り組まねばならない。自己の解決を見つけたら、師家にその見解が真正の悟りであるか鑑別してもらう。師家に教わりに行くのではなく、ましてや頓智問答をするのではない。

著者は、悟りを得るまでは下手に禅籍を読むよりひたすら座れと繰り返し言っている。例として出てくるのは、漱石の「門」の主人公宗助。父母未生以前の本来の面目の公案を与えられて、半跏を組んで座禅をするまではいいが、頭で考えてしまう。脳で考えてしまっては、公案に対する真正の見解が出てくるはずがない、と切り捨てられている。

さらに禅は、悟りを得てからが長い。儒教では孔子70の究極の境涯も、禅の十牛図では6番目くらいで半分にしか至っていない。禅のこの後の境地は、凡人には理解できない。あこがれはするけれど、入り込むことはできそうにない。

バランスの取れたいい本だと思う。


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